貞観の治

いまの日本に必要なのは、本当の意味での「政治力」なのでしょうね。
うまく立ち回れる政治家を熱望します。A倍さんではないでしょう・・・orz



「627年元号を貞観と改める。そして房玄齢・杜如誨の二人を左右に政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行った。軍事においても兵の訓練を自ら視察し、良い者には褒賞を与えて回ったため唐軍は強力になった。
これらの施策により、隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まった。
629年(貞観三年)、その国力を背景に突厥討伐を行う。軍事面では李勣・李靖の二人を登用し、630年には突厥の頡利可汗を捕虜にした。これによって突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは、長安に集まり、太宗に天可汗の称号を奉った。天可汗という称号は、北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する。ここに、唐の皇帝は、中華の天子であり、また北方民族の首長としての地位も得ることとなった。更に644年(貞観十四年)、西域の高昌国を討ちここを直轄領とする。
文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら筆を執って注釈を行った。また645年には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており、太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせた。
このような成功により、太宗の治世は貞観の治と呼ばれ、理想の政治の時代と後世にたたえられた」