いまさらながら日本航空123便墜落事故・・・いや「事件」

   右記の画像は「チャカⅡ 高速無人標的機」

   生存者・川上慶子さんの事故後インタビュー
   http://www.youtube.com/watch?v=KKHBnbv4nPA

9・11事件に続き日本航空123便墜落事件を・・・・今でも謎の多い事故として忘れることは出来ません、また日航の搭乗者組合は現在も事件性を叫んでいます。

この「事件」の、調査委員会の結論は
・ボーイング社の設計整備不良で、圧力隔壁が吹っ飛んだ
・上記により、尾翼が破壊され、操縦不能に陥り(ダッチロールし)、御巣鷹山へ墜落した
と、されています。

ボイスレコーダーと航路に関しては、下記URLを是非クリックしていただきたい
    http://www.youtube.com/watch?v=bzwQO2TtXzw

それを踏まえた疑問点として
①圧力隔壁が吹っ飛んだなら、なぜ内から外へ物が飛び出さないかったのか?圧力が正常であった証拠として、ボイスレコーダーの18時25分18秒過ぎの音声で機長の指示により酸素マスクが降ろされているが、正常に、垂直に降ろされて、使用できていることが挙げられる
写真提供・小川領一氏(遺族)

②なぜ同日同時刻に、相模湾において自衛隊と米軍との合同演習が行われたことを報道管制敷いたのか?

③なぜ米軍機が2機(F4-EJ機)追尾していたのか?静岡県焼津市で複数の目撃あり

④なぜ墜落現場に真っ先に駆けつけたのが、米軍ヘリであったのか?そしてなぜ救助作業を行わなかったのか?(これは米軍も認めている。厚木基地の指示で到着したが、30分ホバーし引き揚げたことも)

やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。
  (落合由美さんの証言による)

⑤なぜ墜落現場を米軍は把握していたのに、現地警察や消防に情報を提供しなかったのか?

⑥なぜ先に現場へ入ったのが米軍そして自衛隊であったのか?その作業が終わるまで警察や消防は立ち入ることすら出来なかったのか?(警察や消防が入ったのは墜落から25時間後)

以上のことからの推測ですが、
「米軍と自衛隊の相模湾における演習において、ミサイル型演習機(敵機と見立てて発射)が誤って、123便の尾翼を破壊し、123便は結果ダッチロールを起こし墜落した。それを米軍、自衛隊は隠匿した」
と、考えております。
仮にそうでなかったとしても、米軍ヘリが救助活動を行っていれば数多くの命を救えたのにと残念でなりません。墜落後5時間ほどは相当数存命であったと、生存者の落合さん、川上さんは述べていますから。

この「事件」も風化していく運命でしょう。ただ、報道関係の中にも疑問視する人間はおり、フジテレビの報道特番でかなり突っ込んだ取材と推論を行ってい
たのは記憶に新しいところです。
  「日本航空123便墜落事故・15年目の検証

また当日が「もう許したる」との「グリコ森永事件の終結宣言」の日でもあり、グリコの役員、ハウス食品の社長が搭乗そして、亡くなられたことはあまりにも有名な話です。
死亡者の中にいまだに身元の分からない遺体が4体存在するということは、何かの偶然なのでしょうか?

米軍・自衛隊、そしてグリコ森永犯の関与という数奇な運命に晒されながら、123便で亡くなられた520名の御霊は未だに無念の中彷徨っておられるかと考えますと、この「事件」を風化させてはならないと想いを新たにするのです。